Company

社長メッセージ

プロフィール

22歳で大学を卒業し、大阪の工具メーカーに就職。入社後すぐに転勤となり、東京神田で7年間勤務。その後起業を志して退職し失業、1年間定職はなくアルバイトを転々とする生活を続けるが、ついに新たなチャレンジの場を見つけることができず、失業生活が続く中、毎日やることもなくニュースや新聞を見ていると企業が競って中国に進出していることを知る。そこで「これからは中国かな?」と考え、中国への2年間の留学を決意。帰国後、翻訳会社に勤務するものの会社が倒産し再び無職に。約1年間アルバイトで生活をつないだのち入社した貿易会社で、世界を相手に商売をする面白さに出会う。しかし半年で貿易会社を去ることになり、それをきっかけに自ら株式会社トマトコーポレーションを設立。約5年間は従業員ゼロ。営業や仕入れ、経理まで全てを一人で切り盛りするも赤字が続く。そんな中、2003年に発売した100円のカニ缶が大ヒット。その後、100円のオイスターソースやオイルサーディン、アンチョビなどヒット商品を次々と生み出し、業績は右肩上がり。現在は社員14人を率いる。

はじめに

初めまして。株式会社トマトコーポレーションの代表取締役 岡本誠司です。
このような形ではありますが、皆様とお会いできたことに感謝申し上げます。
まずは日頃我が社の商品をご愛顧いただき、社員一同感謝申し上げます。

さてこの度、弊社HPのリニューアルにあたり、これまでの軌跡を少し語らせていただきたく、このようなページを設けさせていただきました。
大学を卒業してから当社を興し、経営を軌道に乗せるまでは、紆余曲折、本当にさまざまなことがありました。この間、本当に多くの方からたくさんの温かいご指導を賜りましたこと、この場をお借りして改めて感謝申し上げます。
ここからは、皆様のお仕事や生活の中で、何かヒントや発見などのきっかけになればと、僭越ながら私の波乱万丈の人生の中でも特に忘れられない3つのエピソードを紹介させていただきます。

人生とは出会いと別れの繰り返しです。旅先で思わず心を奪われた美しい風景、街で見かけた面白いオブジェ、また美術館で見た絵画…出会いは大切にしたいものですね。
いつも良い出会いであればいいのですが、人生なかなかうまくは行かないなぁ…。
そんなことを考えながら、ペンを走らせました。
このページが皆様との素晴らしい出会いになりますように。しばし私のエピソードにお付き合いいただければ幸いに存じます。

「売りたい」ではなく「売って」と言われるものを
——100円カニ缶誕生秘話

会社は興したが、うだつの上がらない日々
「何したら儲かりますかね…」。会社を興してから数年間、これが私の毎日の口癖でした。会社とはいえ、従業員は自分だけ。お菓子やゼリーなど色々なものを輸入して売ってはみるものの、ヒットしたものは1つもありませんでした。どこに行っても得意先からは「しょうもないものばかり持って来やがって!」と強烈な関西弁で怒られる日々。馴染みの取引先へ行っては「何したら儲かりますかね…」とぼやき、「そんなもんわかっていたら、俺がやっとる!」、時には「何しに来たんや!」と言われるのが当時の日常で、つらい日々が続きました。

商売は、花の蜜に集まるミツバチを想像すること!?
ある日、大学を卒業して最初に勤めた会社の社長と食事をすることになり、大阪の心斎橋筋を一緒に歩いていた時のこと。
また私は何気なく「何したら儲かりますかね…」とつぶやいてしまいました。アカン!ヤバイ、またつぶやいてしまった…と思った瞬間、社長が「岡本!商売か!商売というのはなぁ!ああいうのが商売や!」と指を差したのです!その先を目で追ってみると、人気のラーメン店でした。店の前にお客さんが30人ほど並んでいたでしょうか。「岡本、たかがラーメンやけどなぁ、あのお客さん達は『ラーメン食べさせてください』と言うて!並んでいるのや」と社長が言うのです。「いいか、想像するのや!想像を!たくさんのミツバチが花の蜜に集まってくる、そういうイメージで商売せぇ。『これ買ってください』ではアカンのやぁ!」と言われ、何か頭を大きなハンマーで殴られたような衝撃が脳に走りました。そのことは今でも、いや、一生忘れない衝撃でした。そうか、今自分がやっていることは「買ってほしい」「売りたい」ばかりを考えている。お客様に「買わせてください」「売ってください」と言われるようなものを作らなければならないのや――。それから、お客様が欲しがるものは何なのかを模索する日々が始まりました。 人気のラーメン店

ヒット商品の予感!頭の中で火花が散った瞬間!
それからは、「ミツバチが花の蜜に群がるようなイメージかどうか」を考えて営業を続けました。しかし、大きなヒントは見つけたものの、日々の仕事は続きます。
そんな中、長年取引していただいている大阪鶴橋のある得意先の社長が、「岡本ちゃん。今な、こんなん売れてるねん。こういうのを輸入してみたら?」と見せてくれたのがカニの缶詰でした。私はその時はピンと来なかったのですが、「1つあげる」と言われ、とりあえずいただいて帰ることにしました。
それからまた全国への営業活動が続きました。北は北海道から南は沖縄まで、あまり売れもしないお菓子やゼリーの販売です。そんなある日、東京の100円ショップに営業に行った時のこと。いつものように「何が儲かりますかね…」と話していると、店長が今は缶詰がよく売れていると言うのです。私は「缶詰なんて、そこら中に売っていますヤンカ!今さらそんな市場に入ったところで、値段を叩かれるだけですヤン!」と思わず反論してしまいました。が…次の一言が私と会社の運命を変えたのです。

「いやね、岡本さん。確かに缶詰はたくさんある。でもね、100円のカニ缶はまだないのですよ」

——この瞬間でした。時が止まり、頭の中でバチバチッと火花が散ったような感覚があったのは。そう、大阪鶴橋の得意先の社長の「カニ缶がよく売れている」という話と、この東京の100円ショップの店長の「100円のカニ缶はまだない」という話がぶつかったのです。

苦労の末、100円のカニ缶が完成
「これや!」進むべき方向が1つになった瞬間でした。確かに、その当時のカニ缶はサイズが大きく、安くても200円〜500円はするものでした。じゃあサイズを半分にして、100円にできればヒットするのではないか…いや、絶対にヒットする!そう確信した私はすぐにタイへ飛びました。そして、小さなサイズの缶詰を作れる工場を探し回りました。バンコクはもちろん、北はチェンマイ、南はスラーターニーまで、広いタイ国内を10社ほど回ったでしょうか。しかし「カニ缶は作れない」「価格が合わない」「缶詰のサイズがない」など、全ての条件に合う工場と出会うことはできませんでした。
いよいよ旅も終わりを迎え、残されたのは最後の1社での商談。なんと!その工場ではカニ缶も作れて価格も合う!が、しかし…肝心の私が求めているサイズの缶はないとのこと。私もこの最後のチャンスを逃してはならないと考え、工場で製造している様々な食品に使用する、あらゆるサイズの缶を全て見せてもらいましたが、結局見つかりませんでした。そして、3時間余りの最後の商談を諦めて席を立とうとした時でした。工場の奥から1人の女性社員が「これ、ペットフードに使われているのですが、これならありますよ!」と走って持って来てくれたのです。このサイズなら!と、まるで暗闇の中から一粒のダイヤモンドを見つけたような喜びがあったことを今も鮮明に覚えています。

しかし、これからがまた一苦労でした。輸入するにはコンテナ単位になり、1コンテナ約3000ケース(1ケース24個入り)=約7万2000個にもなります。
今はそこまで大きな投資はできない。まずは500ケースで始めたいと考えていたのですが、缶詰工場の社長は「その数ならやらない」となかなか首を縦に振ってくれない。しかし、私だってこのチャンスを逃すまいと必死です。私は何度となく頭を下げました。最後はついに私の熱意に根負けし「わかったから、一回やってみろ」と承諾してくれたのです。こうしてようやく日本で100円のカニ缶が販売できることになりました。(現在は販売終了)

入荷即完売が続き、メディアにも次々と登場
その後急いで帰国し、「100円のカニ缶を発売します!」と得意先中にFAXを送りました。そうすると、実物どころかサンプルや味も見ていないのに「ぜひ買いたい!」とどんどん注文が来るのです。

「想像するのや!ミツバチが花の蜜に群がることを!」——新卒時代の社長の言葉。そうです、本当に良い商品は「買ってください」ではなく「買わせてください」になる。社長はまさにこのことを言っていたのだ!と確信しました。
気がつけば500ケースはすでに完売。急いでタイの工場に電話し、思い切って1コンテナ(3000ケース)を発注しましたが、それも入荷して3日で完売しました。それからも私の想像をはるかに超えるペースで注文が入り、入荷即完売が続きました。こんなに世間で受けるとは…と不思議に思いながらも、嬉しくて夜も眠れない日々でした。

ある日の深夜、急に目覚めて「これだけ世間に受けるのなら、メディアにも受けるのでは?」と考え、新聞社にカニ缶を送ろうと思いつきました。部署も担当者もわかりませんでしたが、全国紙を含め10社ほど、各新聞に記載のある住所宛てに送ったのです。もちろんダメ元での行動でした。しかし送付して約1週間、私自身がカニ缶を送ったことを忘れかけていた頃に電話が鳴りました。「あの?私の机にカニ缶を届けてくれました?」と。電話の主は、なんと全国のビジネスパーソンに支持されている全国紙の担当者でした。そのまま色々と質問があり、また改めて挨拶に訪問したいと言われて、その場は電話を切りました。この新聞社との出会いが、また私の人生を大きく変えてくれたのです。

そして翌朝一番9時に!「おい!新聞に御社の商品が載っているヤンか!」と1本の電話が会社にありました。驚いて「あの?どちら様で?」と尋ねてみると、それまで取引のなかった大手の食品問屋だったのです。私はこの時点で記事を見ていなかったので、「そうなのですよ!よく売れているので、取材がありまして」ととぼけて返事をしました。電話を切り、慌てて新聞を見ると、小さいながらも非常によく目に留まる位置に「100円カニ缶発売」と掲載されていました。
その後はこの全国紙の記事を見た業界誌、そしてラジオ局、テレビ局と、次から次へと取材の嵐。最終的には東京でのテレビ収録にお声がけいただき、人生初の全国放送のテレビに出演することになりました。その放送を家族皆で見ながら食べた、母がお祝いで炊いてくれた赤飯の味は、今でもはっきり覚えています。

商品開発のコツをつかみ、当社のビジネスの基盤に
カニ缶のヒットは経営が軌道に乗っただけでなく、新卒時代の社長に言われた、自分が「売りたい」ではなく相手が「売ってください」と言うのはどういうことなのか、またどのような商品をどう売れば良いのかという疑問に対し、自ら回答を見出すことができたことで確固たる自信がつきました。また、取引先や消費者が「買いたい」「欲しい」と思う商品を次々に開発するきっかけにもなりました。

そして何より、このカニ缶発売での一番の収穫は全国の販売ルートを得たことであり、会社の基盤となる「得意先」が開拓できたことでした。「安くて良いもの」を提供する当社のビジネスは100円のカニ缶から始まったのです。

いざという時、一つになれる組織こそ強い!
——本当のチームワークとは

真剣だからこそ、チームメイトはライバル
私は幼少期から野球一筋で、大学でも体育会の野球部に所属して野球に打ち込み、リーグのベストナインに選ばれたこともありました。
現代の学生はどうかわかりませんが、私の学生時代と言えば、高いレベルで真剣に取り組むスポーツチームほど、メンバー同士の仲が決して良いとは言えなかったという印象があります。私の大学でも、野球に真剣に取り組んでいるからこそ、周りはみんなライバルでした。「アイツが怪我したら試合に出られるのに」。
それぐらいのハングリー精神をみんな持っていましたし、当時はそういう気概が必要だと私も考えていました。

絶体絶命のピンチからどう這い上がる?
しかし、そんなライバル心やギスギスした雰囲気を一変させた、私にとっても、チームにとっても初めての経験が待っていました。それは、大学3年生の春季リーグ戦での出来事です。
勝てば3季連続優勝を達成する私の所属チームは、当時毎回優勝を争うライバル校と戦っていました。その春季リーグでも序盤から熾烈な争いを繰り広げ、最終節の直接対決は1勝1敗。最終の第3戦に勝った方が優勝という試合もシーソーゲームになり!なんと4-4で延長戦にまでもつれ込んだのです。
ところが10回表、相手チームに一挙6点を奪われました。当然、ベンチは重苦しい雰囲気に。みんなの心のどこかで諦めがあってもおかしくない状況でした。試合を最後まで捨ててはいけないことはわかってはいますが、心は折れ、「もうアカンかも?・・」という諦めの声が出てもおかしくない状況でした。
10回裏、私たちの攻撃が始まり、必死で食らいつき無死満塁のチャンスをつくりました。そしてまずは相手のエラーで1点を返します。次に四球による押し出しで2点目。まだ4点差ですが、無死満塁がずっと続いています。すると、「ひょっとすると、ひょっとするかもしれない…」という空気がベンチに流れ、私もベンチの雰囲気がいつもとは違ってきたと肌で感じ始めました。
この試合、私は代打要員としてベンチに入っていました。周りを見渡すと、もうほぼ全ての選手を使い果たしていました。「そろそろ呼ばれるだろうな?」と準備をしていると監督と目が合い、「岡本!行くぞ!」と実際に呼ばれました。延長10回裏、2-6。4点のビハインドですが、無死満塁のチャンスに代打で出場することになったのです。

「勝ちたい」という一心でチームが1つに
すると打席に向かう私に、普段はギスギスしているチームメイトが「岡本、頼むぞ!」と真剣な眼差しで口々に声をかけてくれたのです。こんなことは大学に入って以来、いや野球を始めて以来、初めての経験だったかもしれません。「お、おう…」と戸惑いつつ返事をしながらも、驚きと嬉しさが同時に込み上げてきました。普段、あんなに鬱陶しい先輩が、あの嫌な同級生が、俺を応援してくれている——。これはいつもと違う。みんなの目つきが違う。「もしかしたら勝てるかもしれん?」と思いました。バットを握る手に力が沸き、そして、私がタイムリーを放ち3点差に!その後も連打が続きついに同点とし、最後は犠牲フライでサヨナラ勝ち——土壇場で3季連続の優勝を勝ち取ったのです。6点奪われた後の逆転サヨナラという、劇的な優勝でした。
思い返してみると、私が代打で打席に向かうとき、いつものギスギスした雰囲気は消えていました。いつものように「アイツが打ったら悔しい…」とか、「アイツが失敗したらよいのに…」とか、そんなことを考えている人は1人もいなかったでしょう。目の前で必死に相手に食らいつき、じわじわと差を詰めていくチームメイトの姿を見て「勝ちたい」という思いでチームが1つになった瞬間でした。ライバルを蹴落としたいというような邪念は全て消え去っていたのです。 野球

必要な時に、みんなで力を出せる組織へ
普段はみんな違う方向を向いていても、いざという時に団結できる組織は強い。チームワークとはこういうものなのだ!と、この時に身をもって学びました。私自身は今でも、普段はみんながそれぞれの考えを持って行動しているような、ある程度バラバラのチームでもいいと思っています。馴れ合いの仲良しクラブでは強くなれませんし、チームメイトとは切磋琢磨するべきだと考えているからです。それでも、必要な時にはみんなが同じ方向を向いて力を出せる組織でありたい。この学生時代の経験をもとに、当社でもそんなチームづくりを心がけております。

自分で考え、判断することが成長の源
——意志ある相談こそ真の”相談”

自分のせいで、友人が先生に怒られた?!
学生時代というと、青春ドラマのように”爽やかで美しく”…というイメージなのですが、私にとっては意外と暇で退屈でした。今思えばエネルギッシュで、それに知恵がついていけていない、そんな日々でした。「うどん」で例えると、蒲鉾もキツネも何も乗っていない、出汁にネギだけの素うどんのような…何の変哲もない青春時代。
金もなく、何か極めるといっても、ずっと続けていた野球に打ち込んでいたぐらいでした。そんな学生生活も後わずか4ヶ月で終わりを迎えようとしていました。しかし大学生活の最後には必ず卒業論文が待っています。そんな時に出会ったのが、私が今でも人生の師と仰いでいる久下先生でした。

ある日の夕方…いつもの様に暇で変哲もない生活でした。下宿先でゴロゴロしながらテレビを観て過ごしていると、突然慌ただしく部屋をノックする音がしました。「おい!岡本いるか?」と。
私は驚いて「誰や?」と尋ねると、「俺や、山口や、山口!」。
同期の山口君とは下宿先が同じで、私の部屋の斜め向かいに住んでいました。
私が「一体どうしたんや?そんな怖い顔して?」と尋ねると、「今、大学で久下先生と会ってなぁ」。そこで3時間も怒られたと言うのです。私はなぜこんなに真面目でおとなしい山口君が怒られるのか?と最初は不思議でしたが、よくよく尋ねてみると、なんと私のことで怒られたと言うのです。
詳しく聞くと、「先生に『卒業論文を何と考えている!』と言われて、懇々と3時間も怒られたのや。俺の事やない、お前の事や!」と…。学校にも来ない、いい加減な書類を出す…などなど、私の普段の行いのことまで延々と怒られたと言うのです。山口君に対してはもちろんその場で謝り、翌日早々先生にも謝りに行くことにしました。

驚きと感謝の気持ちが芽生えた、たった一言の激励
私は少し緊張して教授室に行きました。久下先生とは普段は挨拶を交わす程度で、しっかり話すのは初めてでした。私はこれまでほとんど学校に来なかったこと、卒業論文も進んでいないことをお詫びしました。友人が3時間も怒られたというのですから、自分は一体何時間怒られるのだろう…と思っていると、先生の返答はたった一言「頑張りたまえ」。あれ?怒られないのや…と拍子抜けしたのですが、先生は私には直接怒るのではなく、自分のせいで友人が怒られてしまったという方が響くと考えられたのでしょうか。相手に合わせて一番効果のある対応をする先生だなと驚くと同時に、ほとんど学校に来ていない私のような学生を気にかけてくださったことに、感謝の気持ちしかありませんでした。 教授

自分の考えを持ってする相談こそ、本当の相談
それから私は心を入れ替え、久下先生の元で宮本武蔵(五輪書をテーマ)についての卒業論文を書き始めました。宮本武蔵の本(吉川英治著)は2年前に読み終えていたので、それなりに理解はしていました。
しかし、再度何度も読み返すと、生き方や考え方について理解できない点がたくさん出てきたので、頻繁に先生の部屋へ相談に行くことになりました。
先生はお忙しい中、時には2時間でも3時間でも熱心にいろんなお話をして指導してくださいました。
そんな日々が数ヶ月続いたある日。先生が突然、「あのね!いろんな学生が私の部屋に相談に来るがね…君ぐらいや、自分の考えをしっかり持って相談にくるのは。いつも「僕はこう思います!と自分の意見を曲げないで、たとえ私がそうではないと言っても恐らく従わず、自分の意見を押し通して結論が決まっているのは」と言い出されたのです。
私は「これはヤバイ!ついに雷が落ちて『もう相談に来るな!』と言われてしまう…」と覚悟して身構えた瞬間!先生が続けた言葉は予想とは違っていました。「岡本君、それが本当の相談だよ」。
それは私の心の奥にズシーンと響くような、一生忘れられない言葉でした。嬉しくて鳥肌が立って、涙が出そうになったのを今でも覚えています。
先生はさらに続けました。「先生どうしたらいいですか?と言いに来るのは、相談じゃなく頼りに来ているだけ。君の場合、99%結論は決まっている。そうやって自分の考えをしっかり整理して、持ってくることが大切や」。
実は私は自分の欠点を自分で分かっていました。みんなと意見を合わせるのが下手で、協調性に欠け、団体行動が苦手で、みんなとあまりうまく行動できるタイプではなかっただけに、この言葉は本当に嬉しかったです。

この出来事で感銘を受けて以来、先生から私の人生の道標になるような考え方をたくさん教えていただきました。まさに恩師、人生の師です。私が社会人になってからも、先生とは長年文通をさせていただきました。残念ながら先生はもう亡くなられましたが、いつでも美しく迷いのない文字で書いてくださったお手紙は、今でも私の宝物として大切にファイルに保管しています。

自分で考え、判断する習慣が成長につながる
久下先生から教わった「相談とは?」の教えは、会社を興してから現在に至るまで社員教育に生かしています。私も社長という立場上、社員から相談されることはよくあります。例えば「社長、こういう展示会がありまして…出展してもいいでしょうか?」「協賛や特値はどうしたらよいでしょうか?」等々、色々な相談があります。
その時私は、毎度同じ回答をするようにしています。「ふーん。それで、儲かるの?」という一言だけです。
私たちの仕事はボランティア活動ではありません。きちんと利益を出すことを求められます。その点を理解すれば社員自身で考えられるはずなのです。
そして、自分がやりたいことに責任感を持ってやればいい。最初は答えをもらえないことに戸惑っていた社員たちも、こうしたやりとりを日々重ねるうちに、今では自らの考えや意見を持って自分で判断するようになりました。

人に頼るのではなく、まずは”自分の考え”をしっかり持つこと。判断を他人に委ねてばかりでは成長しない——恩師に教わった大切なことを、今後も社員たちにしっかり受け継ぎ、強い組織を作っていきたいと思っております。

最後までお読み頂き
ありがとうございました。

まだまだご紹介したいエピソードは、会社設立25周年記念で2022年6月13日発売の本(“「100円カニ缶」ヒットが教えてくれた商売のコツ” 販売予定価格1,430円(税込))にて掲載しております。

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一旗あげたい。チャレンジしたいと言う思いで起業しましたが、ここまで事業が続いているのは多くの人との素晴らしい出会いがあったからです。そのことを忘れないでいようと「おかげさまで」の気持ちに少しでも近づくために、本社の壁にこの言葉を掲げています。
お客様に、取引先に社員に家族に世界のすべての人に、感謝の気持ちを忘れないように日々精進して参りたいと考えます。